音楽雑誌、音楽出版の50余年

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「桃園町」と「桃園」京子

 

 全音から独立したとき、新しい会社の社名は株式会社東京音楽社とした。

全音の島田社長から借りた小さな2階建ての一軒家は中野区桃園町にあった。現在は中野3丁目になっている。

 全音の出版物によく使用されていた作詞家の桃園京子は、当時島田社長が作詞家から買い取った作品の作詞者名としてつけたものである。


 ところで、新しい会社をつくって仕事を始める時は、まず取引銀行を決めなければならない。

当時中野駅を降りて西口広場の方に出ると、ちょうど向いの正面に平和相互銀行中野支店があった。位置的に便利だったので私はここに新しい会社の口座をつくった。たまたま支店長が私の父の知り合いでもあることがわかり、取引は順調にはじまった。

 当時、近くにあった他の銀行としては、駅の横をJRと直角に交差する中野通りを大久保通り方向にちょっと進むと、左側に協和銀行(後にりそな銀行に合流)があった。協和銀行は、私が中学時代から長く住んだ実家の世田谷区豪徳寺の町にも支店があり、平和相互銀行共々他の大銀行にくらべて庶民的な親しみやすい感じがする銀行だった。平和相互銀行のあと、この協和にも会社の口座をつくったような気がする。

 

 当時全音から新しい東京音楽社に移ったのは、私と、ちょうど「合唱界」の編集に参加したくて入社してきた佐野公男君(後にカワイ楽譜)だった。佐野君は男声合唱団のリーダーターフェルに入っていたが、ちょうど東京音楽社に移ってから参加したのだったと思う。

 全音での「合唱界」の編集体制は、編集が私、製作進行が池田淳君(後に日音)、広告が原敏晴君の3人だった。が、新社発足後も原君は1月くらい新社へ通って手伝ってくれていたような気がする。新社の経理関係及び雑務はむろん家内の内藤アイがやることになった。

 現在、月刊ショパンを発行している株式会社ハンナの社長井澤彩野は私の長女で、この桃園町の家で生まれた。

 

 新しい会社の資本金は30万円位だったと思うが、このうち10万円は島田社長が出してくれ、他は私の他、当時私の実家に下宿していて、銀座に南天子画廊を設立した青木一夫さんや私の次姉として結婚していた義兄の内田穆(丸善の初代大番頭で文筆家だった内田魯庵の次男)などが出してくれた。
 全音の島田社長は新社の資本金の3分の1のほか、毎月表4の広告料として10万円ずつ出してくれることにもなったが、その上「合唱界」の譲渡を一銭も支払うこともなく、新しい東京音楽社はたいへん好条件で出発できたことになる。

 島田社長は「合唱界」をそれだけ早く全音から切りはなしたかったのかもしれないが、それにしても同社長のある意味の好意もあったような気が私はしている。

 
 

内藤克洋

(株)ショパン 代表取締役編集長 

(株)ハンナ 会長・総編集長

 
 

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「第九」の楽譜を出版した頃